下関めぐり


まずは、連絡船で門司港から下関唐戸港へ移動し、
ホテルに荷物を預けたら再び門司港まで戻る。
そこからはバスで関門人道トンネル口まで移動し、
人道を歩いて下関の地を踏む。


門司港を出港するとき、船の上下動が激しくて船酔いを心配するほどだった。窓の外の波しぶきも高い。
乗船時間が5分ほどというのが救いだった。同行者からもらった飴が功を奏したかも知れない。
唐戸桟橋に着く時には、船の揺れは門司の時ほどではなかった。
桟橋に立つとなんと下関グランドホテルは目と鼻の先。
雪を踏みしめて進まなければならなかったがわずかな距離で救われた。
門司下関間の連絡船は乗船時間は5分、20分間隔で出ている。まるでシャトルバスの感覚。門司と下関はそんなに近いのだ。
とはいえ、あんなに揺れる船にまた乗るのかと怖じ気づいたが、門司に向かう船の方が揺れが少なかったように感じた。
門司港に戻ったのは、関門トンネル人道入口を通る和布刈行き西鉄バスが出た直後だった。この路線は1時間に1本しかない。
そんなわけで、門司港駅で1時間近くを過ごすことになった。

おかげで、門司港駅の旧1等2等用の待合室で、レトロ感をしっかり味わうことができた。
駅舎の2階も見学できるようになっていて、窓越しに屋根に雪の積もった駅のホームを眺めることもできた。
人道入口でバスを降りると、そこは関門橋の真下だった。
昭和48年(1973)に開通したという全長1068mのこの橋が、なんでこんなに美しいのか。写真を撮らずにはいられない。

バス停の向かい側に人道の入口があり、大型のエレベーターで60m下がる。

そこから全長780mのトンネルが始まる。
門司側380m、下関側400m。県境はど真ん中ではないんだ。
歩行者は無料。自転車・原付は押して歩けば20円の料金で利用できる。
トンネルの始まるところには、国道2号のプレートが付けられていた。
人道の上層階が車道になっているので、車が道路を走る音が頭上から聞こえてくる。

県境では、両県をまたいで写真を撮る姿もあった。
原付や自転車を押して歩く人は見かけなかったが、走って往復するも人がいて、その人には3度か4度出くわした。

下関側ではTOPPA!記念の壁画の前で記念撮影をし、出たところにある観光情報センターでは、門司側と下関側のスタンプを押した人には、8種類の中から選んだ関門TOPPA!記念賞がいただける。GETしたぜ!!
最初の見どころは、みもすそ川公園だとのことで、どこか探そうとしたら、目の前にあり、道路を渡ったところだった。

壇ノ浦は歴史の宝庫。長州藩は1863年5月から6月にかけて、攘夷と称して壇ノ浦砲台に据えたカノン砲で外国船を5回ほど砲撃したものの、翌年、米英仏蘭4国同盟に報復され占領・破壊されたとか。
現在のものは、復元されてたレプリカだそうな。
こちらは今を遡ること850年のこと。
源平の戦いの終末期、この壇ノ浦での最終決戦の地。二位尼平時子は安徳帝を抱いて、「今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にも みやこありとは」辞世の句を詠み入水。
源義経に追い込まれた大将平知盛は、安徳帝が波の下へ旅立つのを見て碇を背負って海に沈む。
そんな物語が繰り広げられた地が、目の前に。
赤間神宮への移動はバスで。

安德帝をまつる赤間神宮のシンボルは、竜宮城をイメージして造られた水天門。門司のレトロ展望台からもはっきり見えた。

屋根に積もった雪が溶けたものが、まるで大粒な雨だれのようにしたたっていた。

神宮の参拝を済ませて、芳一堂へと向かった。

耳なし芳一の話のおおすじ

平家物語を語らせたら右に出るものがなかった全盲の芳一が、怨霊に取り憑かれたことを和尚が知った。お経が書かれていると怨霊の目には見えないということで、芳一を残して出かけるざるを得なかった和尚は、弟子とともに芳一の体中にお経を書いたが、耳だけ書き忘れられていた。芳一を呼びに来た怨霊には、芳一の耳と琵琶しか見えず、耳を切りとって帰った。
その後怨霊が現れることはなくなり、耳なし芳一は琵琶語りの名手として活躍した。
日清講和条約が結ばれたという春帆楼は、赤間神宮のすぐ隣にあった。

「史跡春帆楼 日清講和談判場」の石碑が建てられた春帆楼は、現在も料理旅館として営業しており、客以外の出入りはお断りとなっていた。

その横に日清講和記念館があり、会談が行われたときの会場が、忠実に再現されていた。歴史を感じる。
春帆楼から唐戸市場までは徒歩で5分ほどの距離だった。

市場の横にあるカモンワーフで昼食を済ませた。そことホテルの間には、聖フランシスコザビエル下関上陸の地の碑が。

一旦ホテルのロビーで小休止をし、その後の作戦を立てた。

次に目指す旧英国領事館は、道路の向かい側。目と鼻の先にあった。
 舞う雪に震えながら旧英国領事館にとび込んだ。入口には、昨夜から降った雪でかわいい雪だるまが作られていた。

中に入ると私たち4人組に対して館内の説明をしてくださる方が。館長さんとのこと。
領事室の配置や調度品、暖炉の装飾など、書記官のものとはずいぶん違うこと。領事を訪ねてきた人が話を終えた人と後から来た人が顔を合わさないように部屋が配置されていること。さらに、領事館の現在に至るまでの変遷など詳しく話してくださった。

領事館のパンフレットに、力と心を込めてエンボススタンプを押してくださった。(右下)
   
     話は、この建物の歴史ばかりではなく、下関の変遷などにも触れられた。
漠然とみていては見落としがちなものが、説明を聞くとよく分かる。
窓から外を見れば、煉瓦塀の一部が新しいことの理由を、さらにその先に見える旧秋田商会の建物後方にあるように見える植え込みや日本家屋は、建物の屋上にあるもので、客人をもてなすために造られたものであることなどなど。

立て板に水とはこういうことか。
しかも、聞いていて飽きない。
   2Fがカフェになっていて、暖炉も使われていることやかつては給仕室として使われていた付属屋が、展示などに使われていて、今は木を削ってスピーカーを作っている人の展示会が開かれていることなども教えられた。

カフェにも木工展にも、さらに旧秋田商会にも行ったのは、館長さんのお話のおかげ。

ネットで調べたら、23年4月に新館長に就任された植村勉さんといわれる方のようだ。
植村さん、ありがとうございました。
 
     付属屋で開催されていたのはのほほん木工房さんのヘンテコラッパ木工展。
部屋に入った瞬間、並べられたスピーカーの種類と、その出来映えにびっくり。
 ご本人が、スマホを次から次へとスピーカーのセットしていくと、小さな音が想像を超える大きさで再生される。

ふと立ち寄っただけのつもりが、その世界にはまり込んでしまった。
   旧秋田商会の建物。1階にはカウンターがあり、商談をするスペースがある。2階、3階は住居スペースとのことだが、書院造りで格調の高いものだった。3階は52畳の大広間で、柱が取り外しできるようになっていて間仕切りをすることで使い分けられるようになっている。

 3階から屋上へはらせん階段で行けるように作られているが、老朽化が進み現在はらせん階段を利用できない。
 
 このらせん階段が使える状態なら、屋上の日本庭園や接待用に使われた日本家屋が見られるのだが、手を加えて一般に開放できるようにしようとすれば、莫大な費用が必要になるとか。見られないのは残念だ。

歩道橋の上などからも見えるので、遠目に屋上が眺められる場所から、往時の様を想像するしかない。
   
下関南部町郵便局は、現存する日本最古の郵便局舎で、現在も郵便業務に利用されている。
さらに、局舎前の赤いポストは、最初に設置されたもののようで、今もなお健在。

入口アーチ部分の装飾など、見過ごしてしまうのはもったいない。なんとも美しい建物であり風景だ。
次に向かうのは海峡ゆめタワー。バスでも行けるが、メンバーは4人なので、行った先で探すことを考えれば安いものかと、ホテルに戻りタクシーを呼んでもらった。

降ろされたところから国際貿易ビルの4階まで上がりゆめタワー入り口へ。一旦外へ出なければ行けないが、雪がしっかり積もっていた。

他に客はなく受付の人がていねいに対応してくれた。65歳以上であればシニア減免で半額の300円に。
     シースルーのエレベーターで143mまで70秒で上る。
下関唐戸周辺から関門橋、さらに門司港周辺が一望できる。昨日訪れたモジレトロ展望室やプレミアホテル門司港もしっかり見える。
   さらに右に回れば、関門海峡の北側が見え、ぽっかり浮かんだ巌流島もよく見える。

こうして眺めていると、工場や埠頭や倉庫など、埋め立てられた部分がくっきり見え、武蔵と小次郎が戦った頃の風景とはずいぶん変わっているのだろう。
ましてや源平が戦った頃は、何もないところだったのだろう。

明日は、あの巌流島に行くのだ。
 
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